【笹の葉に結んだセロハンテープと、何もしない贅沢という名の宝物】
【あの日からの地続き】
ステージを揺るがした大合奏のあとの激しい頭痛と、お寿司屋さんでお醤油を飲もうとした次女を大げさになだめた、あの愛おしい夜。すべてのエネルギーを使い果たして眠りについた私の心と体は、翌朝の窓を優しく叩く、静かな雨の音に救われることとなりました。
【日常の輪郭】
容赦なく降り続く雨の気配に、朝から予定していた現場の仕事はパズルのピースが崩れるように延期になってしまいました。けれど、そんなハプニングにも今の私は少しも慌てません。事務所のデスクから関係各所へ素早く連絡を入れ、お役所の担当者との現場打ち合わせを明日の午前中へとスマートにスライドさせ、個人的な予約も電話一本で来週の金曜日へと滑らかに組み替えました。
ぽっかりと空いた午後の時間。私は賑やかなスマートフォンをそっと机の上に置き、静かに目を開けてみました。 部屋の中に満ちる雨の匂い、濡れた風の音、そして自分自身の静かな呼吸のテンポ。流れてくる情報に追われる現代において、「今、私は何もしていない」とただ佇むその空白の時間こそが、実はお金では絶対に買えない人生最高の贅沢なのだと、染み入るように感じていました。ただ歩く散歩の道だって、人生をかけて日々の美しさを再発見するための特別な舞台になる。大人になってから新しい音楽や楽器に挑戦することに、「もう遅すぎる」「才能がない」なんて勝手に限界の柵を設けていたのは、他でもない自分自身だったんだな、と深い内省のなかで胸の奥が熱くなります。
夕暮れ時、部屋の片隅に用意した瑞々しい笹の葉の前に、次女を呼び寄せました。 「ねえ、これ見て。短冊、どんな風に付けたい?セロハンテープでペタッと貼るか、こっちの紐で結ぶか、どっちが良い?」 小さな娘の目線に合わせて床に正座し、彼女の小さな手元を覗き込みながら優しく問いかける時間。彼女が真剣な顔で選んだ願い事の紙を一緒に笹の枝へと結びつけ、完成した色鮮やかな飾りを見上げたとき、私は思わずクスッと笑って、心の中で小さく呟いていました。 「おっ、なかなか可愛い親子やん。いい感じやな」 自分で自分たちを褒めてしまうような、その場のどうしようもなく温かい体温が、雨の日のリビングを静かに満たしていきました。
夜、静かになった部屋で、私はいつものように自分のフルネームを心の中でポツリと呟いていました。雨に予定を狂わされ、スケジュール帳をバタバタと書き直している不器用な代表。けれど同時に、笹の葉の前で娘とテープを切りながら、世界で一番可愛い親子だと自惚れている、ただの父親。あの日の私の、少し照れくさそうな、けれど満ち足りた笑顔がそこにありました。
【その瞬間のきらめき】
未来の私が人生の終盤にこのページをめくるとき、あの雨の日にどれだけの書類仕事が滞ったかとか、アポの変更がどれほど面倒だったのかなんて、きっと一つの文字の破片すら覚えていないでしょう。 覚えているのはきっと、薄暗いリビングの明かりの下で次女と交わした、あの他愛のない短冊の飾り付けのやり取りだけです。私たちは大人になるにつれて、何かしなければと焦り、自分の限界を勝手に決めてしまいがちです。けれど、スマートフォンを置いて風の音に耳を澄ます静寂のなかにこそ、人生の本当の豊かさが眠っていました。足りないルールがあるなら、娘の真っ直ぐな瞳を見つめながら、自分の手で「可愛い親子」という新しい幸せを書き加えていけばいいのだと、あの日の私が静かに教えてくれています。
【明日へのあしあと】
次女が嬉しそうに見上げる笹の葉の揺れを見守りながら、明日の朝一番の段取りを静かに整えています。明日の午前11時からは、お役所の担当者との大切な現場打ち合わせが控えています。
さらに、工事日報を美しく仕上げるために、現場に眠る大型の掘削重機たちの勇姿をカメラに収め、手配していた新しいセメントの袋をきっちりと受け取るという、プロフェッショナルな裏方の任務も待っています。けれど、今の私の足元は少しもぶれていません。
娘と結んだ小さな願い事を胸に抱いて進む明日は、きっといい日になりそうだ。
それでは、また明日。
