【あの日からの地続き】

小学生の頃にノート八冊に難読地名を書き殴っていたあの純粋な執念を思い出し、「完璧を待つな、まずはこの手で試作品を作れ」という泥臭い哲学に胸を躍らせて眠りについた翌朝。あの少年の日のような好奇心を鞄に詰め込んで目覚めた私を待っていたのは、お役所の巨大な不条理と真っ向から対峙する、大人のシビアな戦場でした。

【日常の輪郭】

朝一番、私は事務所のデスクでスプレッドシートの画面を睨み、冷徹なデータとロジックの武器を研ぎ澄ましていました。地元に根を張り、泥にまみれて汗を流している地元の業者たちよりも、外からやってくる大手の業者の方が、圧倒的にまとまった規模の受注総額をかっさらっているという歪な現実。 「地元をないがしろにして、この格差をどう説明するつもりですか」 午前の意見交換会で、私は緻密に組み上げた数字の証拠を突きつけ、制度の矛盾を鋭く追及しました。しかし、返ってきたのは、のらりくらりとした核心を外す答弁と、その背後に透けて見える政治的な力学の影。 「まあ、見事なまでにのらりくらりとかわされたな……」 正論が煙に巻かれていく大きな壁を前に、深い徒労感と怒りが胸の奥で燻っていました。

けれど、私はその悔しさをただの愚痴で終わらせる男ではありません。午後にはそのエネルギーを、移動販売の新しい可能性を模索するクリエイティブな熱量へと鮮やかにリフレームしていました。 「移動販売の価値は、何も味の良さだけじゃない。その場所にある意外性や、そこでしか得られない絶対に要らんやろっていうおまけの体験を丸ごとデザインするんや」 先日から導入を企んでいた最新の立体造形機を使い、試作中の特製コーヒーゼリーのカップをカチッとはめ込むための、「働く重機」の形をしたオリジナルホルダーを自作してはどうか。そんな遊び心あふれるグッズを子どもたちに手渡す瞬間の笑顔を想像していると、日中のお役所への憤りなんて、心地よいワクワクのなかにどんどん溶けていきました。

夜、すべての戦いを終えて我が家の玄関を開けると、日中の硬い緊張感は一瞬で吹き飛び、優しい父親の顔へと戻されました。 長女が流行りの夏風邪を貰ってしまい、小さな身体に熱を帯びていたのです。心配そうに寄り添う家族を前に、私は少しおどけた調子で、けれど深い愛情を込めて声をかけました。 「よし、こうなったら我が家の秘密基地(キャンピングカー)に隔離やな。特別な特等席で、パパと一緒にこの夜を乗り越えよう」

理不尽な組織の壁に「どうしようもない」と無力感を覚え、数字を武器に牙を剥いている尖った代表。けれど同時に、重機のオモチャで子どもを笑わせようと企み、熱を出した娘の小さな寝息を愛おしそうに見守っている、ただの父親。そのマントラは、どんなに荒波に揉まれても、自分の生きるべき大切な重心をピシッと引き戻してくれる、確かな心のアンカーでした。

【その瞬間のきらめき】

未来の私が人生の終盤にこのページをめくるとき、あの日のお役所との意見交換会でどんな答弁があったかとか、受注額の格差が何パーセントだったのかなんて、きっと一つの数字の破片すら思い出せないはずです。 覚えているのはきっと、立体造形機で作ろうとした重機型のホルダーの図面を思い描いたときの胸の高鳴りや、熱を出した娘の額に触れたときの手のひらのあの切ない温もりだけ。「どうしようもない」と諦めて足を止める退屈な生き方を拒み、コントロールできる自分の世界のなかで、どこまでも強気で面白い試作品を形にし続けること。どれだけ冷たい現実に心を削られようとも、家族の暮らす小さな止まり木をユーモアで満たして守り抜くこと。それこそが、数字には決して表れない人生の真の豊かさなのだと、あの日の私が静かに語りかけています。

【明日へのあしあと】

娘の熱が少しずつ落ち着き、穏やかな寝息を聴きながら、夜のリビングで明日のささやかな段取りを整えています。電話で依頼されていた会社の印鑑証明や住民票といった公的な書類をクリアファイルに揃え、意見交換会で持ち帰った課題の資料をメールでカチッと送付する裏方の任務を済ませました。

明日の朝一番には、現場での急な仕様変更の口出来事を、将来の手戻りを防ぐための正式な書面へと落とし込むシビアな確認作業が待っていますが、今の私の足元は少しもぶれていません。

自分だけのアンサンブルを小さく響かせて進む明日は、きっといい日になりそうだ。

それでは、また明日。