【あの日からの地続き】

長女の算数ノートに並んだ「0」を指先でピッて消してやり、直感が繋がった瞬間のきらきらした笑顔。そんな「大人のカンニング」の愛おしい余韻を抱きしめたまま迎えた朝、我が家のリビングはまた新しい賑やかさに包まれていました。

【日常の輪郭】

「じゃあ私、鍵盤のレッスンはやめて、プールにする!」 朝一番、長女が突然下したストレートな方向転換に、私は思わず吹き出してしまいました。子どもの素直な意思表示は、いつだって大人の小難しい理屈を飛び越えて、家の中を一瞬で明るくしてくれます。

そんな笑顔から始まった日中は、新しく仕掛ける移動販売の作戦会議と、本業の大きな買い物の段取りで目まぐるしく動いていました。 「フランクフルトをただ茹でるだけじゃ、ホテルのビュッフェにある乾いたソーセージになってまう。油でパリッと揚げ焼きにするからこそ、ワンコイン以上の価値が出るんや」 さらに、車の横に大きなパラソルを広げて、地元の豆腐や特産品をつまみに冷たい麦酒を楽しんでもらう「昼飲みセット」の構想まで。営業許可の境界線をどうスマートにクリアするか、仲間と語る時間は最高にエキサイティングです。その勢いのまま、ずっと探していた現場用のダンプカーを、まとまった一生モノの投資として購入することをその場で決断しました。月曜日に必要な公的証明書を取りに行き、お世話になっている車両担当の知人と整備の内訳をカチッと詰める手配も、電光石火で進めます。

休憩中、ふと窓の外に目をやると、田植えを終えたばかりの田んぼが、五月の風に揺れていました。 「何もない水たまりより、苗が植わっている田んぼの方が水面が静かに見えるのは、緑の茎が水の動きをそっと抑えとるからなんやな」 そんな自然のメカニズムに感心したり、「ころころ」と「ごろごろ」の響きの違い、日本語特有の「オノマトペ」の面白さに、パズルのように知的好奇心を躍らせたり。

しかし、夜に訪れた楽団の全体練習では、私の心は再び、静かながらも激しい葛藤の渦に巻き込まれていました。 演奏のクオリティを最優先し、圧倒的な実力を持つ新しい仲間を中央に据えたい自分。けれど、長年の和を乱したくないという周囲の「忖度(気遣い)」の空気が、どうしてもその変化を阻んでしまう。 「メンバーをほんの少し変えるだけで上がるはずの点数を、気遣いのせいで変えられんというのなら、週末にどれだけ泥臭い練習を重ねても意味がないんじゃないか」

タクトを振り、具体的な指示を出しながら、私の胸の奥には歪な和音への不満が燻っていました。面白い話をせがんでおきながら、話の途中でスヤスヤと気持ちよさそうに眠ってしまった仲間の無邪気な寝顔に、「おいおい、二番煎じのオチを語る前に寝るんかい」と呆れ混じりのユーモアを覚えつつも、組織の壁は厚い。

未来の私がこの記述を読めば、きっと声をあげて笑ってしまうでしょう。それは楽団の悪ふざけのようなミームだったのかもしれませんが、その歪なリズムのなかで、私は妙に救われている自分に気づいていました。

【その瞬間のきらめき】

未来の私が人生の終盤にこのページをめくるとき、コンクールの点数にこだわってピリピリしていたことや、社会の格差について「下を底上げすれば格差なんていくらあってもいい」と熱弁していた青臭さなんて、すべて心地よい夜風に消えているはずです。 田んぼの苗が静かに水面を落ち着かせるように、私の人生のノイズを抑えてくれていたのは、昼間に夢想した「お年寄りの個人宅へ数人で生演奏を届けに行く出張お祝いサービス」のような優しい夢であり、何より、私の名前を楽器の音色に乗せて笑い合ってくれた、あの完璧ではない泥臭い仲間たちの存在そのものでした。どれだけ意見がぶつかっても、私の名前が響くあの空間には、確かに嘘偽りのない愛が存在していました。

【明日へのあしあと】

楽団の熱い議論を終え、夜風を浴びながら我が家への家路につきます。明日の朝は、月曜日のダンプカー登録に向けて、引き出しの奥から必要な書類を揃えるささやかな裏方の段取りが待っています。