【あの日からの地続き】

次女のカバンの奥から見つかった、くしゃくしゃに折れ曲がった小さな手紙。そのシワを夜の明かりの下で一枚一枚優しく伸ばし、「明日は先生に渡そうね」と約束したあの静かな夜の余韻が、新しく晴れやかな朝の光へと滑らかに溶けていきました。

【日常の輪郭】

約束通りに娘を送り出したあと、私は朝一番の静かなリビングで、スマートフォンの通信優待の手続きや、家族のアカウントを繋ぐクラウドの共有設定といった、普段なら後回しにしがちな面倒なデジタル作業と格闘していました。パチパチと画面を叩き、すべてをすっきりと完了させたとき、思わず小さな独り言が漏れました。 「よし、最高の有意義な一日の始まりや」

今週の始まり、月曜日と火曜日のたった2日間の現場仕事で、材料費を差し引いても驚くほどまとまった大きな収益が上がっていることが確定していました。通帳の数字を確認しながら、経営者として「これで今月は少し心のゆとりを持って過ごせるな」と、胸の奥がじんわりと軽くなるのを感じていました。

日中、業界の噂話のなかで、ある他社の不振が耳に飛び込んできました。現場の泥の匂いを知らない営業出身の人間がトップに立った途端、数万円の決断すら滞って現場が硬直したこと。原価計算の甘い見積もりで利益を削り、ついには信頼していた職人たちからも「やっとれん」と愛想を尽かされていく組織の末路。それを聞きながら、私は自らの胸に手を当てていました。現場の痛みが分かり、一緒に汗を流す仲間と確かな信頼を築くこと。それこそが、私の商売の絶対に譲れない骨格なのだと、他社の崩壊を鏡にして深く内省していました。

少し頭を休めようと立ち寄った池のほとりで、楽団の仲間の顔がふと浮かび、私は車内でクスッと吹き出してしまいました。 先日、鯉の餌代として置かれていた、わずか四百円の小銭を前にして、その仲間が「俺は今、この四百円をポンと差し出すことができる器の人間なんだろうか」と、真剣な顔で苦悩していたのです。 「出さない」のと「出せない」のは、人間の金銭感覚の根底において全く意味が違う。そんな他愛のない、けれど妙に哲学的なエピソードを愛おしく思い出しながら、SNSを開けば、お気に入りのインプット先である筋肉至上主義のインフルエンサーが「すべては筋トレで解決する」と極端な暴論を吐いている。世界は相変わらず、割り切れないおかしさで満ちていました。

何億という大きなお金が動く世界経済の波を睨みながらも、先人の「お金を持ったら質素に生きろ」という言葉を守り、等身大の自分に重心を戻すための、それは私だけの大切なアンカー(錨)でした。

【その瞬間のきらきら】

未来の私が人生の終盤にこのページを開くとき、あの2日間にどれだけの利益を叩き出したかという数字の記憶なんて、きっと綺麗さっぱり忘れているはずです。 覚えているのはきっと、朝のアカウント設定がうまくいって小さくガッツポーズをしたことや、鯉の餌代の四百円を巡って大真面目に悩んでいた仲間の、あの少し滑稽で愛おしい横顔だけです。「何かをやらない言い訳」を一番最初に口にする退屈な大人たちを尻目に、自分の得意な武器だけを信じて、泥臭く現場を仕掛けていくこと。豊かになっても決して驕らず、質素な日常のなかに転がっている小さな笑い声を拾い集めて生きていこうと、あの日の私が静かに語りかけています。

【明日へのあしあと】

夕暮れ時、面積が少し減った現場の修正見積もりをメッセージアプリでサッと送り、金曜日の朝一番から始まる農道修繕の段取りをきれいに整えました。来週からの公共工事に向けて、天候の神様と相談しながらスケジュールを微調整するタスクも残っていますが、今の私の足元は少しもぶれていません。

夜、我が家の玄関のドアを開けたら、まずは次女に「今日、先生にお手紙ちゃんと渡せた?」と聞くのを、何よりの楽しみにしながら。

自分の名前を小さく響かせて進む明日は、きっといい日になりそうだ。

それでは、また明日。