【あの日からの地続き】

次女の「ダブル歯抜け」の誇らしげな笑顔と、届いたばかりの立体スキャナーが放つ静かな青い光。あの愛おしい我が家のぬくもりを胸に残したまま迎えた朝、私の身体は重く、喉の奥には冷たく嫌な痛みが走っていました。

【日常の輪郭】

咳と微熱で重くなった頭を抱え、ドラッグストアで買い求めた咳止め薬を水で流し込む。 「あかん……正直、今日はもう練習に行きたくないな。このまま布団に包まって休んでしまいたい……」 少し離れた街の大ホールで待っている楽団の練習へ向かう車中、ハンドルを握りながら、私は心の中で幾度となく愚痴をこぼしていました。行き交う車が作る渋滞のなか、車線を交互に譲り合う車たちのテールランプを見つめながら、同乗していた仲間にポツリと語りかけます。 「合流っていうのはな、ギリシャ文字の『φ(ファイ)』みたいに、両方の車線を最後まで使い切って、先頭で一つずつ交互に入っていくのが一番効率がええんや。みんなが少しずつ優しさを分け合えば、渋滞なんてすっと流れるんやから」

けれど、ホールに着くやいなや私を待ち受けていたのは、本番直前でのあまりにも急でシビアな「ファーストパートへの変更」という打診でした。かすれる声を抑えながら不満を飲み込み、マウスピースに息を吹き込む。

合奏の合間、音の切り方が分からずに苦しんでいた若い後輩メンバーの元へ歩み寄りました。 「いいか、まずは舌で音を刻む(タンギング)のを一回やめてみな。息をずーっと入れっぱなしにした状態で、フレーズをそのまま吹いてごらん。まずは音の凸凹を綺麗に平らに揃えてから、そこに後からカットを入れていくんや」 私の言葉通りに吹いた瞬間、彼女の音がふっと透き通った美しさを取り戻す。

「いつだってホール練習では最高の音が鳴るのに、どうして本番になるとガタガタになってしまうんやろうな……」 高みを目指すからこその歯痒さと愛おしさが、胸の奥で複雑に渦巻いていました。

遅い夜、すべての練習を終えて駆け込んだ深夜の牛丼屋。湯気が立ち上るカウンターで、温かいお茶を飲みながら、私はふと電気の仕組みについての例え話を口にしていました。 「一度切れたら取り替えなきゃ動かんヒューズと違って、ブレーカーはな、負荷がかかりすぎたらスイッチがガチャンと落ちるだけなんよ。落ちたらな、また手でカチッと上げて直せばええんや」

湯気の向こうで微笑む仲間たちの顔を見つめながら、私はいつものように自分のフルネームを、まるで散らかった感情をピシッと整える句読点のように、心の中で静かに唱えていました。

体調の悪さに愚痴をこぼし、組織の甘さに眉をひそめている、完璧ではない泥臭い代表。けれど同時に、後輩の音の変化を我がことのように喜び、ブレーカーの例えでみんなを励ましている、ただの音楽好きな男。 その口癖は、どんなに熱っぽく苦しい夜であっても、自分のなかの情熱の灯火を消さないための、確かな心のアンカーでした。

【その瞬間のきらめき】

未来の私が人生の終盤にこのページをめくるとき、あの日どれほど喉が痛かったかとか、パートの変更にどれだけ苛立っていたのかなんて、きっと雲の彼方に消え去っているはずです。 覚えているのはきっと、後輩の音がふっと美しく重なったあの瞬間の響きと、深夜の牛丼屋で吸い込んだ温かい湯気の匂いだけです。「行きたくない」と強く抵抗していたのは、それだけ自分がこの楽団と音楽を心から愛し、妥協したくないという高い理想を持っていた証拠だったのだと。人生も音楽も、一発で切れて終わるヒューズである必要はない。失敗したり倒れたりしたら、ブレーカーのように何度でもスイッチを上げ直せばいいのだと、あの日の私が静かに教えてくれています。

【明日へのあしあと】

午前零時を過ぎて我が家へと辿り着き、静まり返ったリビングでパソコンを立ち上げました。 「みんながお風呂に入っとる間くらいには、今日の音源を上げておくからな」と仲間と交わした約束を果たすため、今日のホール練習の録音データを静かにクラウドへアップロードしています。

明日はまず、体をしっかりと休めながら、来月のお盆休みに向けた工事日程の調整をカチッと進める現実の朝がやってきますが、今の私の足元は少しもぶれていません。

何度でもスイッチを上げ直す勇気を胸に抱いて進む明日は、きっといい日になりそうだ。

それでは、また明日。