【あの日からの地続き】

お役所とののらりくらりとした意見交換会に少しだけ憤り、熱を出した次女を「キャンピングカーに隔離やな」とおどけながら看病した、あの薄暗い夜。額に触れたかすかな熱の余韻を手のひらに残したまま迎えた朝は、昨日の嵐のような騒がしさを優しく洗い流すような、穏やかな光に満ちていました。

【日常の輪郭】

まだ少しだけ微熱が残る次女の小さなおでこに触れ、今日は無理をさせずに幼稚園をお休みさせることにしました。 「よし、今日はパパの一日付き合ってもらおうか」 助手席に小さな彼女を乗せて、車を滑り出させます。午前中は、お役所での手続きやいくつかの立ち会い予定をこなすためのドライブ。

普段は無機質で、時には少しだけ息苦しさを感じる仕事の現場。けれど今日、私の後ろをトコトコとついて歩く小さな女の子の存在が、張り詰めた空気のなかに不思議な魔法をかけていきました。 窓口を回るたび、強面の手続き担当者や取引先の仲間たちが、みんな目尻をとろけさせて出迎えてくれる。行く先々で「これ、お嬢ちゃんに」と、冷たいジュースやお菓子が手渡される。車に戻り、ダッシュボードの上にお菓子の山を築いた次女に、私は得意げに笑いかけました。 「なぁに、パパについてきたら、いろんな人がいろんなもんくれてええな」 娘は嬉しそうに頷き、誇らしげに胸を張っていました。お昼に入ったいつものファミレスでは、お子様セットの横に添えられた「ガチャガチャ用の金貨(コイン)」を前に、まるで世界で一番の宝物を手に入れたかのように目を丸くして喜ぶ。その無邪気な視線に、私の心のカサついた部分はみるみるうちにふやけていきました。

その温かい時間のすぐ傍らで、私の頭は相変わらず、ビジネスのなかにある「非効率」に対する冷徹な刃を研ぎ澄ましていました。 社内の資料作成に過剰な時間をかけ、責任を分散させるためだけに宛先欄に無数の連絡先を詰め込むような、大企業の無駄な慣習。 「やらなくていい形式的なことを『やれ』と言われて、真面目な顔をして『はい』と従わなければならないのが、私はどうにも嫌なんやろうな」 社内向けの図面なんて、綺麗に描く必要はこれっぽっちもない。さっさと30分や1時間で仕上げて、その図面が手元に届いて現場が回り、ただ座っているだけの人間がすぐに労働力に変わる方が、どれだけ合理的か。他人の保身や形式主義にため息をつきつつも、別れ際には「何か困ったことがあればいつでも言ってください、対応しますから」と、次のチャンスの種を蒔く大人のしたたかさも忘れません。

そして、その合理的な眼差しは、夜に思いを馳せる「いつもの楽団」の音作りにも向けられていました。 合奏を聴くたび、私の胸には音楽的なフラストレーションが募ります。 「みんなが自分が主役やと言わんばかりに力いっぱいに吹くから、楽譜のなかの一番繊細な静寂(メゾピアノ以下)が綺麗に響かんのや。演奏のなかに『他人に席を譲る』という優しさと余裕があってこそ、音楽は初めて色気を持つ」 コンクールに向けて、打楽器の担当を思い切って交代させるべきかという指揮者の友人との重い決断、そして煩雑な名簿の会費管理をスプレッドシートで丸バツ管理して「見える化」しようという小さな改革。

お役所の形式主義を鼻で笑い、楽団の音の暴力に眉をひそめながら次の配置を企んでいる、せっかちで頑固な代表。けれど同時に、おもちゃのガチャコインを握りしめた娘の隣で、「パパについてきたら良いことがあるやろ」と照れくさそうに自慢している、ただの父親。 その不思議な口癖は、慌ただしい役割の海に溺れそうになる自分を、いつでも「一番愛おしい場所」へと引き戻してくれる、確かな心のスイッチでした。

【その瞬間のきらめき】

未来の私が人生の終盤にこのページをめくるとき、あの日にどれほどの非効率な事務作業に苛立っていたかとか、楽団の名簿の見える化がどうなったのかなんて、きっとひとつの音符の破片すら覚えていないでしょう。 覚えているのはきっと、助手席から聞こえてきた娘の小さな寝息と、もらったガチャコインを小さな手のひらでギュッと握りしめていた、あの細い指先の温もりだけです。「やらないでいい形式」を他人に押し付けられる世界から、私たちはいつだって、あのガチャコイン一枚で飛び出すことができる。本質だけを見つめ、別れ際にそっと仕事の種を蒔き、大人の本気で音楽を鳴らす。不器用で完璧ではない毎日だけど、この泥臭い戦いの中にこそ、人生を最高に色鮮やかに彩る最高のアンサンブルが眠っているのだと、あの日の私が静かに教えてくれています。

【明日へのあしあと】

次女の熱もすっかり下がり、静かな寝室から聞こえる規則正しい寝息に耳を澄ませながら、リビングで明日の小さな段取りを整えています。新しく作成してもらった会社の電子証明書の申込書に、明日の朝「ハンコをポンと押すだけ」の準備を済ませ、ささやかな面積の舗装工事の見積もり計算をカチッと仕上げるタスクが残っていますが、今の私の心は少しもぶれていません。

パパについてきてくれた小さな相棒との特別な思い出をポケットに詰め込んで進む明日は、きっといい日になりそうだ。

それでは、また明日。