【「りんご」から「らっぱ」へ繋ぐ、静かな朝のアンサンブル】
【あの日からの地続き】
楽団の甘えに激しいフラストレーションを覚え、「プレイヤーとしてもう一段上の景色を目指す」と自分自身へ熱い宣戦布告をしたあの夜。胸の奥に燻る情熱の炎を抱えたまま眠りにつき、目が覚めると、そこには拍子抜けするほど穏やかで優しい月曜日の朝が待っていました。
【日常の輪郭】
沖縄への慌ただしい旅や、分単位で資材を差配する現場の喧騒、そして夜遅くまでの白熱した合奏練習。そんな目まぐるしい日々が嘘のように、今日のリビングには柔らかな朝の光が満ちていました。
「もう貴方たちが遊ばないなら、小さな相棒を事務所に入れてしまうよ」 散らかった部屋の片付けを促しながら、私は子どもたちに声をかけます。文句を言うかと思いきや、長女と次女は楽しそうに笑いながら、小さな手で木の手触りが残る積み木を一つひとつ箱へと収めていきました。その健気な姿を見つめているだけで、昨日まで尖っていた心の角がみるみる丸くなっていくのが分かります。
片付けがひと段落すると、床に座り込んだ娘たちが私の服の裾を引っぱりました。 「しりとりね。じゃあ最初の言葉どうぞ」 「りんご」 次女が誇らしげに口を開き、長女が楽しそうに繋ぎます。 「らっぱ!」
らっぱ――その響きに、私は思わず胸の中でクスリと笑ってしまいました。昨日あれほど熱く語り、命を吹き込もうとしていた自分の愛する楽器の仲間が、こんなにも無邪気な子どもの遊びの中で、一番最初のパスとして返ってきたのです。
「パパ、しりとりできるようになったで!」 少し前までは言葉を繋ぐことすらおぼつかなかった小さな唇から、弾むような成長の報告が飛び出します。窓の外の晴れやかな天気を眺めながら、私は娘たちの頭を優しく撫でました。
【その瞬間のきらめき】
未来の私が人生の終盤にこのページをめくるとき、かつて山道の大渋滞で絶望した記憶や、組織の未来を憂いて夜通し議論した激しさよりも、この何でもない月曜日の朝の「しりとり」に、いちばん深く涙するのではないでしょうか。 世界をあっと言わせるエンターテインメントの構想を練ることも、会社の利益を冷徹に計算することも、すべてはこの「りんご」から「らっぱ」へと続く小さな笑い声を守るためのものだったのです。
思考の心地よい余白のなかで、私はいつものように自分のフルネームを心の中でポツリと呟いていました。人生の上を目指して足掻き続ける不器用な男。けれど、子どもたちの成長の前にひざまずき、ただ一緒にしりとりをして目を細めているあの日の私の体温が、この静かなリビングの空気の中に確かに溶け込んでいました。
【明日へのあしあと】
積み木を片付け終え、すっかり綺麗になった部屋で、子どもたちは次の新しい遊びの作戦を立てています。日常の愛おしいリズムにしっかりと足の裏をつけている感覚が、私に最高の元気を分け与えてくれました。
明日はまた、本業の現場でのシビアな資材価格の交渉や、楽団の未来を懸けた重要な戦略会議の段取りといった、大人の戦場が待っています。未解決の課題やしがらみは山積みだけれど、今の私には恐れるものは何もありません。
この小さなアンサンブルを胸に抱いて進む明日は、きっといい日になりそうだ。
それでは、また明日。
